部屋の窓を開けると淡い日差しと共にほのかなホットミルクの匂いがした。私は窓から身を乗り出して、その甘い香りのありかを探した。嗅覚をはたらかせていくうちに、私は自分が最後にホットミルクを飲んだのはいつだろうと考えていた。それは今となっては遠い昔だった。幼いころ、当時よく遊んでいた同い年の女の子と――テーブルには丸いビスケットもあった気がする――一緒に飲んだ。ちょうど今日のような、薄い雲に覆われた空模様の日で、季節も秋だった。私たちはソファに掛けて一冊の絵本を二人で読んでいた。女の子の名前は……そこまで思いを巡らせたところで、私の心に、氷の針が刺された。……思い出せない。彼女の名前は……いや、いい。今となってはもうどうでもいいことだ。
秋萩に 置きたる露の 風吹きて 落つる涙は 留めかねつも
日差しが優しく身体を包むのを感じながら、私は万葉集の相聞歌を呟いた。彼女の名前。私はあのときの涙と一緒に、それを捨ててしまった。まだ愛など知らぬうちから直感的に認識していた、彼女を慈しむ気持ちを風にさらい取られたあの日、無力な自分を呪い、情けなさで胸が張り裂ける思いだった、抗うことのできない不条理の濁流にのまれた、その残滓として私の心に残ったその名前、それを心に留めておくのはあまりに辛すぎた。
愛する者が死んだときには、
自殺しなけあなりません――
傷心した幼き自分は、中原中也のこの詩に出会ったとき、救われる思いだった。そうか、ぼくも死ねばいいのか、と。
果たして当時の私は、剃刀を喉に当ててひと思いに引いた。
――けれどもそれでも業(?)が深くて、
なおもながらうこととなったら、
奉仕の気持ちになることなんです――
辛すぎる現実から目を背けようとしていたあのとき、私はその詩を最後まで読んではいなかった。冒頭の、あまりのショッキングな文章に、打ちのめされてしまっていた。病院で、私は父から後の詩を教わった。
「――お父さんも自殺しようと思ったことはあるの?」
「……お母さんと会うまでは、いつもそうだったよ」
「そうなの?」
「それからも時々、思っていたよ。お前が生まれるまではね」
「ふうん」
私は父から渡されたチョコレートを口に入れた。少し苦くて、顔をしかめた。そんな私を見て、父はそっと微笑んだ。それから、私の名前を呼んだ。
「ねえ、どうしたの?」
もう一度、私の名前を呼ぶ声がした。今度は父の声ではなかった。私は振り返って、声の主に微笑んだ。
「いや、外からホットミルクの匂いがしたんだよ」
「ホットミルク?」
私は頷いた。彼女は――私の妻――は、窓から身を乗り出して、鼻を利かせた。
「……しないよ」
「さっきはしたんだよ」
「ふうん」
――ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に
テンポ正しく、握手をしましょう
手から伝わる温もりは、やがて心に突き刺さった氷の針を溶かした。
「いきなり……どうしたの、変な人」
妻はそう言って、一人でおかしそうに笑った。