雨が降っていた。人々は駅の構内で呆然と立ち尽くすか、走り出すかのどちらかだった。俺もみんなも、傘を持っていなかった。
激しい雨だった。俺は構わずに歩き出した。少し歩くと、とうに潰れた美容室の前に占い師がぽつねんと座っていた。
目が合った。ずぶ濡れの俺とそんなこと我知らずといった感じの婆さん。
「掛けなさい」
俺は言うとおりにした。
婆さんは陣のような模様のクロスがかかっているテーブルに、カードを3枚並べた。
「めくりなさい」
俺は左から順にカードをめくった。
「『魔術師』の正、『戦車』の逆位置、そして『審判』の正――自分の判断に疑問を持っているようだね」
俺は黙ってタロットカードを見ていた。
「チャンスだったのにね」
「チャンス?」
婆さんは頷いた。しかし俺にはなんのことだか見当もつかなかった。チャンス?
「チャンスってのは、わずかな灯火だよ。だからたいていの人は見過ごすか、知らないうちに吹き消してしまっている」
「俺も逃したってこと?」
そこで婆さんはふっと笑った。
「……さあね。それはシェリーに訊いてくれ」
「誰だよそれ」
「それはあんたが一番よくわかっているはずだよ」
「わからねえから訊いてんだろ」
俺は立ち上がった。すると婆さんは手を俺のほうに伸ばしてきた。
「5000円」
マジかよこのババア。
「払うわけねえだろ」
俺はそのまま家に向かって歩き出した。雨は家に着いたころに止み、嘘のように夕焼けが綺麗だった。ずぶ濡れだったから玄関で服を全部脱いだ。
シャワーを浴びて部屋着に着替えるとやっと気持ちが落ち着いた。ヤキトリの缶詰を開けて、ビールを飲んだ。2本目を冷蔵庫に取りに行くついでにマーラーの『千人の交響曲』を流した。
3本目を空けたころには気分がよくなった。新企画のプレゼンが滑ったのも、先週女に逃げられたのも、シェリーが誰なのかも、なにもかもどうでもよくなっていた。
……シェリー?
煙草を吸って少し落ち着こうとしたが、思い出したとたんにさっきの婆さんのことが気になってしかたがなくなってきた。
インターフォンが鳴った。
「あの、ここにシェリーがいるって聞いたんですけど」
「あいにく俺だけだよ」
「そんなはずはないです。確かにそう聞いたんですから」
「ふざけてんのか、ここは俺の家だ。シェリーなんか知らん」
「ちょっとそこをどいてください」
男は土足で俺の部屋に入っていった。そしてクローゼットを開けたり、ベッドを引っペがしたり、炊飯器の中を覗いたりしていた。
「……おっかしいなあ」
「お前の頭が、だろ。さっさと失せろ」
俺は男をぶん殴って玄関の外へ放るとドアを閉めて鍵をかけた。ドアを思い切り叩く音がする。
「いい加減にしねえとぶっ殺すぞ」
「シェリーは笑っていますか?……きっと泣いていたんだと思うんです。でも、私はシェリーは、いまはもう笑っていると思うんです。笑っていてくれればそれでいいんです」
俺は返事をせずに交響曲の音量を上げた。そして4本目のビールに取りかかった。
朝、俺は便座に顔を突っ込んでいた。目の前にはゲロが撒かれていた。それを見てもう一度吐いた。顔を洗って歯を磨いても気持ち悪いし、頭も痛い。テーブルには無数のビール缶と空になったワイルドターキーのボトルがあった。
ふらふらになって片付けていると、逃げた女の顔が浮かんできた。居酒屋の便所の前でぶっ潰れていたのを、俺は担いで家に置いた。すると女は朝になっても帰ろうとせず、次の日も当たり前のようにうちにいた。それが一週間続いた。3日目の夜に女は言った。「あなたのことが好きみたい」と。そのときに一回寝た。
7日目の夜、俺が仕事から帰ると、女は消えていた。なにも残さず、なにも盗まず。
いまごろどうしているのか、興味なんてないが、笑っていてくれればそれでいいと思った。