昔から僕は、なんとなく周りと打ち解けることができなかった。
その原因は自分にあって、他人に対する興味が薄かったこと。というよりは、「他人は他人、自分は自分」という意識が強すぎたからだと思っている。
他人のやることに口出しはしないから、僕のやっていることにもなにも言わないでくれ。といったような、ある種モンロー主義が自分の中であった。
その結果もたらされたのは、孤立。
でも、僕はそれでいいと思っていた。イギリスの外交じゃないけど、これは栄光ある孤立なのだと。自分のもとから人が去っていくのは、それは寂しくもあったけど、仕方のないことだとすぐに割り切れた。
「早くから孤独になじみ、まして孤独を愛するところまできた人は、金鉱を手に入れたようなものだ」
とショーペンハウアーは言った。さらに彼はこんなことを言っている。
「孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間になってしまう。
なぜなら、孤独でいるときにのみ、人間は自由になれるのだから」
だから僕もなるべく……というよりすでに孤立しているのだから、そこに特に修正を加えることなく生活してきた。
それでいいと思っていた。
他の人からは「寂しくないの?」なんて言われたりもしたけど、そんなことは全然なかった。本を読んだり、小説を書いたり、たまにひとりで出かけたり、僕はそれで満ち足りていた。
だけど、去年、友人たちの結婚式に何度か招待され、行ってみると、そこには僕からは想像もし得ない、幸福がそこにはあった。それは前に僕が捨てた、あるいは諦めたものだった。
結婚。
僕には不思議でならなかった。そりゃおめでたいことだし、幸せなことだとはわかる。だけど、僕は僕で、それとは関係のないところで、それなりに楽しい生活を送っている。だけど、皆が皆、結婚をしたがる理由がわからなかった。
そんなときに、この言葉に出会った。
「全ての人に敬意を払い、ただの一人にも媚びるべからず」
僕は、この言葉を骨に刻みつけた。
いままでの僕は、他人に対する敬意がなかった。無関心を貫いていた。「他人は他人。自分は自分」と。
しかし「他人は他人。自分は自分」、同じ言葉でも、僕の中で意味は大きく違うものになった。
チバユウスケの言葉を借りれば、「いいも悪いもそいつの感性」。
これはショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』で示していることと相似している。
つまり「本当に正しいこと」なんてどこにもなく、それぞれがそれぞれの信念を持って生きている。それを受け入れることが必要だと気付いた。
なにが正しいなんてわからない。未来は自分の向いている方で決まる。
だったら、他人が自分の道を進むことに、その勇気ある一歩に、僕は敬意を表したい。
そして、僕は僕で、ただの一人にも媚びることなく、毅然と自分の道を進みたい。
「人生は見かけ通り醜いが、三四日生きるには値する。なんとかやれそうだとは思わないか?」
チャールズ・ブコウスキーは言った。
確かに人生は醜い。だからこそ、誇りをもって生きていきたい。……他人への敬意とともに。