「ぼんやりとした不安」に囚われている”情熱的ペシミズム”のすすめ

 SNSの普及により、交流の輪がとめどなく――自分自身でも感知できないところまで――広がっていき、友人が増えた、出会いが増えたという利点がある一方、その程度の繋がりしか持てなくなっているのが現状だろう。はっきり言ってしまえば、知り合いとも言えないような、ぼんやりとした関係の人間ばかりが増えていっている。そしてLINEでは送られたメッセージを読むと既読がつくので、読んだのか読んでいないのかが一瞬でわかる。SNSに投稿すれば自分の所在やプライベートでなにをしているのかがすぐに、全世界に知れ渡る。


 別にそこのこと自体が悪いわけではない。SNSなんてあくまで道具なのだから、問題はどう使うか。それに尽きる。しかしそれもわからず、考えもせず、ただ漫然とメシを食いに行って出てきた料理を写真に撮ってアップロードしたり、愚痴を書き綴ったり、遊びに行ったときの写真を載せてみたり……。さて、では、そのことになんの意味があるのか。まずはそこから考えていきたい。


 大多数の人は、「いいね!」や実際にコメントを貰うためというのが動機のひとつとしてあると思う。さらに掘り下げてみよう。なぜ「いいね!」やコメントが欲しいのか。ここでマズローの欲求5段階説を取り上げたい。


 マズローは、人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて、低階層の欲求が充たされると、より高次の階層の欲求を欲するというもの、 と定義した。つまり


自己実現欲求 ↑

尊厳欲求   高次の欲求、内的に満たされたい

社会的欲求    低次の欲求、外的に満たされたい 

安全欲求

生理的欲求    ↓


 第一階層の「生理的欲求」は、生きていくための基本的・本能的な欲求(食べたい、寝たいなど)で、この欲求を充たせれば、次の階層「安全欲求」を求める。

「安全欲求」には、危機を回避したい、安全・安心な暮らしがしたい(雨風をしのぐ家・健康など)という欲求が含まれる。

「安全欲求」を充たすと「社会的欲求」(集団に属したり、仲間が欲しくなったり)を求める。この欲求が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやすくなる。

 

 ここまでの欲求は、外的に充たされたいという思いから出てくる欲求。

 

 そして次に「尊厳欲求(承認欲求)」(他者から認められたい、尊敬されたい)という欲求が芽生える。ここからは外的なモノではなく、内的な心を充たしたいという欲求に変わる。

 

 そして、最後に「自己実現欲求」(自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなど)の欲求が生まれる。


 第二層段階まで(生理的欲求、安全欲求)は多くの人が満たされているだろう。そして社会的欲求。これが問題で、この社会的欲求を満たそうと、SNSをやっているのではないか。人と人との繋がりを求めて。


 SNSのすべてが悪いというわけではないが、社会的欲求を渇望するあまりに、SNSをツールではなく「なくてはならないもの」となっていることが問題で、SNSを続けていないと、友人や知り合いと疎遠、もしくは絶縁状態になるかもという思いになってしまっていることに危機感を覚えて欲しい。そしてこの問題の一番やっかいなところは、自覚がないということ。着信にうっとうしさを覚えながらも、なんとなくで使い続けているということ。返事を早く返さないと「付き合いの悪い奴」と言われるだろうし、繋がっていないとひとりぼっちになってしまうだろうし……そんな「ぼんやりとした不安」を誰しも抱えているのではないか。


 しかもその「ぼんやりとした不安」はそれだけではない。将来のこと、結婚とか仕事とか……といったいちいち誰かに言うことでもないよな、と思ってしまいがちな問題も含まれている。

 

 SNSにおける「ぼんやりとした不安」は、社会的欲求だけでなく承認欲求にまで及び、たとえばコメントやら「いいね!」とかが欲しくなるのがそれである。


 しかし、たとえ読者からのレスポンスがあったとしても、欲求が満たされるのはほんの束の間で、渇きのようにさらに欲求を満たそうとする。要するに社会的欲求や承認欲求は求め続けていたらきりがない。つまり「ぼんやりとした不安」からは逃れられない。


 さて、ここでその「ぼんやりとした不安」について考えたい。


 その根源は「孤独への恐怖」といえるだろう。「友人を失いたくない」「付き合いが悪いと思われたくない」というような。


 しかし、孤独が悪いことなのか。むしろ孤独を愛することができれば、「ぼんやりとした不安」からは逃れられる。


「世界は私たちの表象である」


 ショーペンハウアーはこう言った。表象とは自分の目などで知覚するもの、つまり「見えている世界」のことだ。自分の目で見たもの(主観)が表象として現れているにすぎない。そして世界はそれだけでない。自分の内面的な部分で(よく本能的と言うような)、主観と対応している「意志」がある。つまり、世界は全人類に共通する存在ではなく、各々の主観が映し出したものが、いま自分が存在している世界なのだ。例を挙げると、AがBのことを好きで、めちゃくちゃタイプで惚れ込んでいるとする。しかしCから見たBさんはそこまで魅力的とは感じられない。要するに、同じ対象物を認識しても、それは各人によってまるで別のもののように映る。表象の世界は、各人が各人の主観から映し出されているものであり、意志の世界は、盲目の意志と「こうしたい」という行動的な意志の2つがあり、盲目の意志は人間の根幹的な部分で、「生きんとする意志」である。


 要するに、盲目の意志によって人は動かされ、自分の表象を作り出していく。その表象はあくまで自分のものなので、相手のそれとは別のものだ。このことから、人と人はわかりあえない、という結論が出せるだろう。


 しかし人間とは社会的動物である。なのでわかりあおうと努力をする。無駄だとわかっていながら、孤独を愛さない。


 孤独とはなんなのか。それは死にもっとも近い存在である。社会的動物でありながらその社会から切り離されたら、生きてはいけない。だから娯楽や社交に逃げて、精一杯幸せだと自分に言い聞かせる。


 現代社会では、ありとあらゆる価値観が崩壊して、混沌としている。なにが正しいのか、なにを信じればいいのかがわからない。親さえもあてにならない、友達ならなおのこと。そんな状態で自我を保つのは難しい。だから人はそれを忘れようと人と接し、酒やら遊びやら恋愛やらと逃避する。そしてこう思う――


「こんなこと、いつまでやってられんのかな」


 ぼんやりとした不安の根源はまさにそれである。一抹の虚しさを覚え、自分はなにをやっているんだろう、自分ってなんのために生きているんだろう……


 その処方箋が先述した「孤独を愛すること」である。とはいえ、いきなりそれをできるものではない。さらにいえばいきなり孤独になっても途方に暮れるだけだ。その前に自分というものを確固とした存在にすることが必要になってくる。


 確固とした存在。つまり信念をもつこと。ひとつ芯を自分の中で持つこと。家族を幸せにする、夢に向かって追いかける、彼女を泣かさないようにする、なんでもいい。そうして自分をしっかり持っていれば、世界(後述)で途方に暮れることはない。


 世界とは人間が存在する前から存在し、人間はその世界の中にいる。そしてその世界の中で他人と繋がって生きている。その繋がりがなくなってしまうと、世界から出されてしまうことになる。だから人間は誰かと繋がろうとする。――いつ切れるんじゃないかと不安に怯えながら。そして人間はその繋がりあった世界の中で己の存在意義を求める。それが「○○のために」という動機からくる行動だ。仕事もそうだし、困っている人を助けたり。


 自分の存在意義が理解できれば、孤独なんて怖くはない。孤独になれば自由でいられる。欲求の渇望からも解放される。


 孤独こそが人間の自由な状態でもっとも自然な状態だ。この考えまでたどり着ければ、あとは自分がどうしたいのか、自分の人生を満喫するにはどうすればいいのか、という問題に取り掛かれる。


 その問題のヒントが「情熱的ペシミズム」だ。


 孤独になったということは、自由であるということで、いくらでも自分の好きなように自分の人生を謳歌できる。孤独になる際に一旦失ったものが多くあるかもしれない。いままで積み上げてきたものが崩れ去り、瓦礫の上に突っ立ってるようなものだ。多くの人はそれを「絶望」という。


 しかし瓦礫になったからなんだ? むしろ見晴らしがよくなったじゃないか!あとは自分の思い思いの城を組み立てるだけだ。これが情熱的ペシミズムだ。


 ペシミズムというと「厭世主義」などと言われているが、「最悪主義」のようが意味にかなっている。そう、この世は最悪なんだ。


 だからどうした?諦めて死ぬのか?


 そうじゃない。諦めず、世界は最悪だと認識をしたうえで、どう生きていくかを考える。ペシミズムとはそういう意味だろう。


 情熱的ペシミズムに絶望はない。なぜならもともと最悪なのだから、期待すべきものは最初からない。つまり絶望する材料がない。


「すべての人に尊敬を払い、ただのひとりにも媚びるべからず」


 この言葉のように、相手にはなにも期待をしない。期待をすると裏切られたときにどうしても頭にくるからだ。しかしそんな人も含め、すべての人に尊敬を払う。


 世界は最悪な状態だ!だったらそれを楽しんでやろう、笑い飛ばして自分の城を作ろう!!


 情熱的に、あくまで情熱的に。

拍手返事

・俺もバイク欲しい、でもバイク怖い

→怖いと思わなくなると事故りますからね……「気をつけて乗る」のが一番です。

 

ごはんに塩は赤飯っぽくなるから好き。レンジでチンするタイプのパックのごはんだとなお良い。

→おー、やってみます!おいしそう。

 

・美味しいし1000円で食べ放題なの有能すぎ

→食肉センター、いいですよね。ただ、つい食べ過ぎて歩けなくなるのは事案です。久しぶりにレバー食べたかった……

 

・遅くなったけど、おめでとお

→こちらも遅くなりましたが、ありがとお!10周年にはオフ会ができるくらいのアクセス数になっていればいいなあ……やらないけど。

 

・バーというと銀座のルパンとか行きたいけど、勇気が出ないなオレ(バル関係ねーな)

→GI☆N☆ZA☆とか……いや、それ、怖い……

 

・命綱みたいなのが無いとこのボルダリングだと利用する前にここで怪我とか死亡されても店側は一切責任は負いませんけどいいですか?みたいな契約書書かされるのがくっそ怖かった。女の子のお尻を下から眺めるのたのしい。

→やらないでもお尻を見てるだけで楽しいですね。ちょっと契約書書いてくる。

 

・何かを褒める時にセットで何かを貶すのってクソだと思います。その点、誰も傷つけずに笑いを取れるヒカキンってすごいです。見習ってください。

→ごもっともです。反省してます。僕のようにクソでダニの餌にもならないような人間は、ああいう書き方しかできなかったんです。今後は気をつけます。その点ヒカキンはすごいですよね。漢字にすると非課金。……エンターテイナーの鑑ですよね。

 

・私も文理選択で死にました 悔いのない人生の選択をしていきたいものです

 →選択する前に二者面談とかしてくれればよかったのに、と人のせいにするっていう。

 

・ラブラドールじゃないのか

→バター犬には興味ないです。

 

・会話が弾む職場と言うのはうらやましい

→人間関係が良好なのが唯一の取り柄です。あとは基本ブラックです。

 

・あっ分かる、自律神経が自律神経狂わすみたいなループ状態糞すぎ

→明日、先生と交渉して最低でも頓服用でなにかしら薬をもらいにいきます。じゃないとしんどすぎてヤヴァイです。

 

・シロデココの者ですが、自分なりに誰でも気軽に観れるように気を配っていたはずが、怖いと思われるとは...まさかの想定外

→いや、なんていうか、僕がファンタジーに苦手意識を持っていたせいで、敬遠していただけで、いまではかわいさにやられています。なんで怖かったのかは自分でも説明できません……

 

・文学フリマ、そんなに異質な空間でもねーから大丈夫だよ。

ただ、私はもう出展しないけどなw

→そうですか……ならいいんですけど……1パーセントもわからないので、いまはただただ怖いです。

 

・なぜか後輩が男の前提で読んでた

ノンケのはずなのに

→ここはホモサイトじゃありません!!

 

・今更な話かもしれませんがハンネの由来ってビリー・ホリデイですか?

→そうです!……カッコいいのでそういうことにしたいのですが、実際は筋肉少女帯の曲で『ビッキー・ホリディの唄』ってのがあるんですよ。その曲が大好きで、そのまんま拝借しました。