ギアをニュートラルに入れてキーを回してエンジンを切る。フロントブレーキは握ったままバイクから降りて、一息ついてから右手をシート後ろのあたりへ移して、センタースタンドを立てる。
ウエス、洗剤、スポンジ、ブラシ等々、用意して、バケツに洗剤を入れてそこへ水を加える。そして、ひと思いにバイクに水をかけていく。そうしていると、ちょっとした不安感が頭をよぎる。本当に大丈夫なのかと。すぐに雨の日も乗ってるしなと思い直すのだが、毎度頭をかすめる。
ヘッドライトのあたりからタンク、マフラーと上から下へとシャワーでほこりを流していく。アスファルトに水たまりができていき、そこに青空が映し出されている。洗車をするのは、暑いよりは寒いくらいがちょうどいい。暑いとすぐに水が乾いて垢になってしまう。それに肉体的にもかったるい。
100均で売っている柄付きタワシにクレンザーをつけてマフラーを磨き始める。オイルやら泥やらで汚れているから、入念に、といっても力はあまり入れず磨いていく。泡が黒くなっていく。汚れがしつこくてなかなか落ちない。黙々と磨く。中腰でやっているものだからすぐに疲れてくる。たまに背筋を伸ばして、再び磨く。
会話をしているような、そんな気になってくる。言葉では言い表せないが、あえて表現するならどのような感じだろうか。「やあ、調子はどうだい」……違うな。
おそらく取り留めのないものだろう。たとえば女性と喋っているときのような。意味のある会話をするのではなく、会話をすることに意味があるような。バイクに名前をつける場合、女性の名前をつけるらしい。ともすればバイクはメスなのだろうか。それはなんとなく頷ける。……従順さを除けば、の話だが。
エンジン周りも磨いていく。入り組んでいて骨が折れる。彼女は喋り続けている。俺はじっとそれを聞いている。別に苦痛ではない。楽しそうに喋っている彼女の姿がとてもかわいらしいからだ。反対側も磨く。
シャワーで泡を流すと本来の輝きを取り戻した。今度はホイール周辺を磨く。クレンザーは惜しまずにどんどんつけていく。
SR400。シンプルイズベストという言葉がよく似合う。それゆえに不便な部分もあるが、だからこそ「自分だけにしか扱えない」というようなある種の独占欲が満たされる。それは恋人がとっておきの表情を見せてくれたときのそれと同じなのかもしれない。勘違いと信頼の交差点に佇む男の虚しい欲求。裏切りや絶望なんて彼女たちからすれば、コンビニのレジでレシートを受け取るようなものなのだろう。
エンジン周りを磨き終えて、また洗い流した。俺はそこで思わず苦笑いを浮かべた。一人で洗車をしている自分が女についてあれこれ御託を並べるのは、我ながら滑稽だった。スポンジを手にとりバケツの洗剤をつけて、ミラーやタンクを洗う。
君は俺になにを求めている? ――その答えを知るにはお互いの距離は遠すぎる。いや、たとえ手を伸ばせば触れ合えるまで近づけたとしても、通り過ぎてしまいそうな気がしてならない。結局はなにかを求められているのかどうかさえ、わからないまま気がついたときにはなにかを失っている。優しさを言い訳にして、地面を見て歩き続ける。それが俺なんだ。
一通り洗ったところで、また全体にシャワーをかけていく。見違えるほど綺麗になった。ウエスで水気を拭き取っていく。丁寧に、しっかりと。
気温がはっきりとわかるくらい低くなっていた。陽が傾いている。夕焼け小焼けが流れている。お別れの時間。さようならは抱きしめる合図。ウエスが絞れるくらいに濡れたから、取り替える。
切なさが慕情をさらいとっていくとき、悲しみはなりをひそめる。ガソリンの臭いがそれを教えてくれた。流れる夜が、涙を隠してくれた。
ワックスをかけていく。磨けば磨くほど、美しさが際立っていった。シルバーの部分は専用のクリーナーでさらに磨いて、新しいウエスで拭く。鏡のように俺を映し出した。メイクを取ったカルヴェロのような……。
コーティング剤で仕上げたら洗車は終わりだ。俺は煙草を吸いながら磨き上げたバイクを眺める。拭き残しを確かめながら、愛でる。
黄昏時だった。夕陽に照らされている彼女を見ていると、それだけで満たされた。君がいて俺がいる。もうほかに何を望もう?
それが虚勢なのは自分でもわかっている。でもいい。今日はそれでいいんだ。
デートを土壇場でキャンセルされた今日は、特に。
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