たまには真面目な文章を書きたい、と思い、じゃあ真面目な文章を書くぞと意気込んではみたものの、伝えたいことがなにもない。普段の更新のような文章ならばいくらでもとは言えないが、それなりに書き続けることはできるだろう。しかし、真面目なものとなると、それは難しい。自分には主義主張が特にないのだろうかと思うほど、書くことに困る。
主義主張が特にない、いやそんなことはないと言いたいけれど、じゃあなにか主張してみなよと言われたら、取り立てて述べることはない。基本的に僕は「僕以外の人間は僕じゃない」を肝に銘じてというか、心がけている。だから、僕の主義を他人に押し付けることはしたくないし、逆に押し付けられたくもない。というよりは、後者のほうが強い。干渉されたくないから干渉しない。モンロー主義が僕の主義と言ってもいいのではないか。
もちろん、様々な面で意見はある。ただ、それを自分から発信しようとはあまり思わない。聞かれれば答えるくらいで、あとは勝手にやっていてもらいたい。括弧つきで僕に実害が及ばない限りで、ということになるが。そして、それは自分も心がけている。他人に実害が及ばない限りで自由にやる、と。
まあ、言ってしまえば当たり前のことなんだけれど、それを最大限努力している人は少ないのではないか。とは言っても、僕自身に影響がなければ、どうでもいいことだから、ここでそれについて論ずることはしない。
話を戻すと、僕に主義主張がないのではということだけど、先にも書いたようにそんなことはないと思う。現にこのサイトをやっていくうえで自分のなかでいくつかの決まりごとを課しているし、それを破ることは僕の考え方にそぐわない。つまりそれが主義となるのではないか。
僕は自分で文章を書くときには、常にエンターテイメント性を意識している。文章というのは、多くの場合、そして僕が書くときのほとんどが読まれることを前提としている。となると読んでくれた人に最低限「時間の無駄だった」と思われない程度の気遣いはするべきだろう、いや、もっと言えばそこに満足せず、ファンになってもらえるくらいの面白い、楽しい、愉快な、そんな文章を目指すべきだろう。と書くと大げさに感じるかもしれないけど、読んでもらう以上は楽しんでもらいたいとは常に思っている。
じゃあ、いま書いているこの文章は、どこがエンターテイメントなんだよ、と思う人もいるかもしれない。実際に自分でも思っている。しかし、「面白い」のなかには「興味深い面白さ」と「楽しく愉快な面白さ」がある。僕はいままで後者のほうばかり見てきたけれど、前者もエンターテイメントとして成立するのではないかと思うようになってきた。そして、こちらのほうがギャグに走れない分、読者に興味を抱かせることが難しいと思う。内容と文体(これは一朝一夕ではどうしようもないけれど)で魅せることが、というよりはそれしか方法がない。後者の文章ではそれに加えレトリックやフレーズを織り交ぜることができる。冒頭で「真面目な文章を書きたい」と書いたけれど、それはよりシンプルな方法で読者を楽しませることを試みようと思い立ったということでもある。
僕は楽しく愉快な面白さのほうばかりに囚われていたと書いた。それは、あるときに主張をすること、正論と言い張ることにむなしさを感じたからだ。
どれだけ客観視して物事を見つめても、それは自分の視野の範囲で努力したにすぎない。つまり必ず「抜け」がある。ということは、必ず異論反論は存在する。それを「いや、自分こそが正しい!」と声高に主張することに、僕は意味を見いだせなくなった。
たとえば居酒屋で友人と飲んでいるときも、学のない連中がない頭を振り絞って小難しい話をする。酔いも回っていてまともな話なんてできるわけがないのに、まともな話をしようとする。僕はそれならば中身のない、その場だけのノリの会話を楽しみたい。ガールズトークのような、ただの雑談に興じていたい。そう思い、その流れで自然と書く文章も中身なんてない、ただ寝る前に読み流されるようなそんなものになっていった。
それはいまでもそれでいいと思っている。ただいまでは真面目な話でも興味を抱かせられればエンターテイメントとして成立する、というもうひとつの可能性にチャレンジしたい、ということだ。
と、ここまで書いていて、いつもの雑談のような文章ではないにしろ、酔っぱらいが演説をしているような文章になっていないかと心配になってきた。真面目なだけにタチが悪い、そんな文章になっていないだろうか。
さて、正論を主張することがむなしくなったとは先に書いたけど、それとは別に、僕は正論そのものがむなしいと感じている。
会話をしているときに特にそう思うのだけれど、会話というものはただのコミュニケーションであるのだから、多少の意見の違いに主張をぶつけると、それは議論になってしまう。休憩時間に喫煙所でたばこを吸っているときに、わざわざ議論をしたい人なんてそうはいないだろう。ただ話がしたい、そういうときもある。そういうときに正論を言ってしまうと、会話に水を差すことになる。正しくても間違ったことをしたことになる。
職場の愚痴、恋人の愚痴、家族の愚痴もそう。誰も正論、アドバイス、説教なんて求めていない。それがどんなに正しい意見でも、必要とされてない以上は口にするべきではない。その人はただ喋りたい、ただ聞いてほしい、ただそれだけなのだから。
それに、正論というのはえてして「そうだけど、そうじゃないんだよ」ということが多い。つまり「それができたら苦労はしねえよ」ということだ。要するに、話している本人も、その正論は最初から認めている。となるとわざわざ他者が口に出すことはない。
まとめると、基本的にコミュニケーションにおいて正論に需要はない。真面目に話を聞いて真面目に受け答えするとバカを見るというわけだ。
しかし、セ・ラ・ヴィ。それが人生というものなのだろう。
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